荒野の旅人

荒野の旅人(遊戯王 封印されし記憶実況者)

ツイキャス(文学)とYoutub(遊戯王)中心の記事を投稿していきます。

自由と幸福について

※ 今回の記事は自分の中で整理できていないことを整理するために

 書くので、わかりづらい文章になるかもしれません。

 ご了承いただければ幸いです。

 それとかなり長文です。

 

 さて、今回のテーマは自由と幸福についてです。

 最近、ぼくは自由と幸福の定義や意義について

 考えるようになりました。

 自由という言葉は様々な意味で使われます。

 今回記事にする「自由」は「消極的自由」

 すなわち「~からの自由」です。

 

 

 自由という理念・権利は現代では当然のものとして

 規定されています

(もちろん、自由がない国や地域もあるので

 絶対ではありませんが・・・)。

 歴史を繙いてもこの「自由」を獲得するために

 血なまぐさい闘いが繰り広げられてきました。

 国家からの自由、宗教からの自由、労働からの自由・・・。

 そして自由な人生を送ることができるように

 多くの国家においては憲法や法律によって

 自由が保障されることになりました。

 

 そもそも、なぜ人々は自由を求めたのでしょうか?

 きちんと説明するのは難しいと思いますが、

 不自由=不幸、自由=幸福

 だと人々が考えていたからではないでしょうか。

 不自由であるということは、自分の好きなようにできない

 ということである。

 自由であるとは、自分の好きなようにできる

 ということである。

 そして、人間は自分の好きなようにできることを好む。

 ゆえに、人間は自由であるべきである・・・。

 こんな感じでしょうか・・・。

 

 ぼくも同様に、自由が保障されているほど幸福である

 と考えていました。

 しかし、過度な自由は人間を幸福から遠ざけるのではないか

 と最近思っています。

 

 ぼくは平成生まれです。

 普通の家庭で育ち、普通に学校に行った普通の人間です。

 世界を詳細に観察すればまだ平和ではありません。

 しかし、ぼくが生まれた平成の日本は、現在に至るまで少なくとも

 表面的には平和でした

(事件やテロもありましたが大きな戦争や内乱はありませんでした)。

 先の大戦によって被った壊滅的打撃も、高度経済成長を経て

 回復しましたし、日本国憲法の制定によって、

 平和で民主的な国をみんなでつくっていこうという

 基盤も形成されてきたように思います。

 そして、インターネットの発展とグローバル化に伴って

 ノマドワーカーやミニマリストといった新しい生き方が誕生し、

 本当の幸福とは何かを捉え直す動きも活発になっている

 と思われます。

 

 このように、現代はこれまでに比べて

 自由で民主的な社会になったと感じます。

 この流れ自体は悪くないと思います。

 自由が抑圧された世界に比べれば、

 自由が保障された世界のほうが

 いいと思うからです。

 

 ただ、ぼく個人にとってはどうかと聞かれると、

 ぼくは自分の自由を素直に喜べていないのが現状です。

 なぜ、ぼくは自分の自由を喜べないのか。

 原因はいろいろあると思います。

 

 ぼくに特別な才能も、才能を開花させようと努力する気力も

 なく、自由な時間やお金が与えられても有効活用できないこと。

 自由が与えられると唯我に自閉してしまい、趣味に没頭するが、

 やがて飽きて退屈してしまうこと。

 何をやっても空しいのだという疑念を拭えないこと。

 これらが原因だと感じます。

 

 自由は高貴で才能ある努力家にこそ

 ふさわしいのかもしれません。

 ぼくも昔は自分には何か才能があるはずだと信じていたのですが、

 最近ではむしろ自分には才能がないのだと

 思うようになってしまいました。

 だから、自分が自由に値する人間だと思えないのでしょう。

 

 そこで、自由の使い方を再考するに至りました。

 これまでぼくは与えられた自由を個人的なものとして捉え、

 行使しようとしてきました。

 ゲームをするのも、本を読むのも、旅に出るのも、

 自分個人の好奇心や情熱を満足させるために行ったものでした。

 

 しかし、そのような営みはものすごく空しかった。

 自分のやりたいことをやっているはずなのに、なぜこんなに

 空しくなってしまうのだろう?

 ぼくは長い間悩んでいました。

 

 悩んだ結果、思ったのです。

 この自分のうちにある空しさは個人的なものではなく、

 社会的なもの、すなわちみんなが背負っているものなのではないか?と。

 今感じているこの苦しみは自分個人のものというよりは、

 社会全体の苦しみなのではないか?

 そう思うようになったのです。

 

 たとえば、夜更かしをして時間を無駄にしてしまったときに

 感じる罪悪感。

 これは、個人的な罪悪感であるとともに、自由が欲しくても

 得られなかった人々からの非難なのではないか?

 という気がします。

 実際に非難の声が聞こえるというわけではありません。

 しかし、そういう気がするのです。

 そして、そういう声を無視して生きることはもうできないと

 思い始めるようになりました。

 

 つまり、たとえ自分に自由が与えられているように見えても、

 それは自分一人のものではなく、世界全体の共有財産であり、

 世界全体の幸福のために用いるべきなのでないか、という

 ことです。

 自由を喜べないのは、自由を個人的な目的にのみ行使している

 からである、と。

 

 先ほど書いたように、ぼくには才能がないので、芸術やスポーツで

 人々に幸福を届けるというのは絶望的です。

 正直、今の段階ではアルバイトやボランティア、ブログを書くこと

 くらいしか思いつきません。

 

 「別に才能がなくても、自分にできる範囲で

 社会貢献すればよいのでは?」

 そういう問いかけが来るかもしれません。

 たしかに、そうかもしれませんが、ぼくが問題にしているのは

 何をやっても空しいということ、すなわち苦しみの声が日増しに

 大きくなっているように感じることなのです。

 

 いくらぼくが社会貢献をしても、ぼくの心は満足しない。

 ぼくが満足していないなら、社会全体もきっと満足していない。

 なぜなら、自分の苦しみと社会の苦しみは同じだから、と。

 

 ただ、貧困や差別、環境破壊といった問題を黙って

 見過ごすわけにはいかない。だからこそ、

 無駄だと思いながらも働いたり、ブログを

 書いたりするのでしょう。

 要するに、悪いことではないのでしょうが、根本的な解決策からは

 程遠いとわかっているから満足できないのでしょう。

 

 先ほど、世界の幸福を目指すために自由を行使したほうがよいと

 思うようになったと述べました。ここでいう幸福とは穏やかで

 平和的なものに限定する、とだけ付け加えておきます。

 「人を喜ばせたい」という人が忘年会の席で下品な芸を披露して

 笑いを取ることがありますが、これは世界の幸福に貢献しない

 と思っています。

 なぜなら、この人は下劣な方法で一時的に笑いを取っただけにすぎず、

 自己満足で終わっているからです。

 

 ぼくは「楽しい」と「幸福」は違うと思います。

 たとえば、収入が増えると好きなものが買えたり、好きな所に行けるように

 なります。そのとき、楽しいと感じるでしょう。

 でも、世の中にあるお金が限られている以上、誰かが得をすれば必ず

 誰かが損をする仕組みになっていますから、収入が減る人も出てくるでしょう。

 つまり、自分の「楽しさ」のために誰かの「楽しさ」が犠牲になったということ

 です。

 

 何が言いたいのかというと、「楽しさ」は個人的なものであり、人それぞれ

 違うゆえに対立が起こりますが、「幸福」というのは普遍的なものであり、

 誰であっても同じゆえに対立は起こらない、ということです。

 

 旅に出るのが好きな人もいれば、ゲームをするのが好きな人もいる。

 だから、好きなこと、楽しいことは人によって違う。

 しかし、自分の人生が惨めだとか、空しいと感じたい人はいない

 はずです。誰もが充実した人生を送りたいと考えていると

 思います。

 

 だからまずは世界から不幸を取り除いていこうではないか、

 というのがぼくの結論です。

 先ほど例を挙げた下品な芸を行う人はその芸によって

 不愉快になる人の気持ちなど全く考慮していないから不適切

 なのです。

 

 個人の違いを認め合いながら、全体としての幸福も同時に

 求めなければならないのに、全体がよければ個人はどうでもいいと

 いうのが、先の芸者です。

 個人を無視して全体を優先させると全体主義になってしまう危険性が

 出てきます。それは避けた方が賢明でしょう。

 

 今後ぼくは自分の自由を賢明な方法で行使しなければならないでしょう。

 そしてこの空しさを世界全体の空しさとして捉え、空しさゆえに

 苦しまないような世界を日々築いていく必要があるでしょう。

 個人的な趣味の時代が終わり、公共の福祉を志向する生活に

 変わっていくでしょう。

 

 そのため、ぼくの個人的自由は制約されるかもしれません。

 旅に出たくても、募金したり、

 好きな学問を学ぶよりも、世の中に確実に役立つ学問を

 学んだり、

 好きなことを考えるのではなく、世の中に役立つことを

 考えるようにするなど、

 自分の自由を世界の自由のために行使することが増えていく

 でしょう。

 

 最初は辛いかもしれませんが、慣れてくると自分と他人の

 垣根が取り払われて苦痛でなくなるかもしれません。

 そうやってすこしずつ世界をよくしていければと思います。

 ご精読ありがとうございました。