荒野の旅人

荒野の旅人(遊戯王 封印されし記憶実況者)

ツイキャス(文学)とYoutub(遊戯王)中心の記事を投稿していきます。

【思索】コロナ後の世界観・人生観

コロナ後の世界観・人生観 

 

※ 今回の記事はコロナ禍を受けて変容したぼくの世界観・人生観を

書き綴ったものです。かなり冷徹に現実を観察した上での結論なので、

人によっては読んでいて辛くなるかもしれません。

もし、読んでいて気分・体調が悪くなった場合、

すぐに読むのをやめてください。

ただ、ぼくはこの残酷なる現実を直視しないことには、

苦しみを滅ぼすことはできないと考えているので、

こうした考察を積み重ね、それに基づいて行動していくことが

最善の道になると考えています。

それではスタート!

 

 

1.自由・平等・平和の完全実現は「絶対に不可能」であることを知った

 

 

はい。早くも残酷な事実ですね。

無理だろうとは前から思っていましたが、絶対無理という考えに

至ったのはコロナ禍を経験した後でした。

 

そもそもこの世界は、全員が幸せになるようには設計されていません。

人間界もそうですが、わかりやすいのは動物界です。

 

突然ですが、もし皆さんが世界の創造者だとしたら、どんな世界を

作りますか?

魔法が使える世界? きれいな景色がたくさんある世界?

人それぞれいろんな世界を思い浮かべることでしょう。

 

では聞きますが、争いや殺し合いを世界に組み込もうとする人は

いるでしょうか?

いるわけがありませんね。

だってそんな物騒な世界は嫌なはずだから。

 

では世界を見てみましょう。

なぜライオンはシマウマを襲うのでしょうか?

それはライオンが生きるためにはエネルギーが必要であり、

シマウマがそのエネルギーになっているからです。

だから襲うのです。そうしないと死んでしまいますから。

 

でも、そもそも生きるために他の生物を食らわなければならない

世界を創造する必要はあったのでしょうか?

ライオンとシマウマが争うことなく、仲良く手を取り合うような

世界だってあり得たはずです。

自分の生命エネルギーを自給自足できるような身体の仕組みも

設計できたはずです。

 

でも、そうはならなかった。

動物の世界は弱肉強食の世界になり、

強い者が生き、弱い者が死ぬ恐ろしい世界に

なってしまった。

これは世界の設計ミスであり、明らかにこの世界が誤っていることの

象徴だと思います。

今よりももっと善い世界があったはずなのに、現実は悲惨である。

このように、

「この世界はあらゆる可能な世界のものの中で最悪である」

という考えのことを「最悪主義」といいます。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーが代表的ですね。

 

今、動物界の話をしましたが、人間界も全く同じです。

まず、各人の能力・境遇は平等ではありません。

ぼくらは生まれた時点で覆せない不平等を抱えています。

しかもその不平等は絶対に改善されません。

なぜなら、人間は利己的だから。

というよりむしろ、そうやって争うことによって

発生する負のエネルギー、それが遺伝子にとって

都合がいいのでしょう。

 

種の生存競争では、強い者が生き、弱い者は淘汰されます。

このときに、真の意味で弱者に対する思いやりが成立するかどうか?

成立などしないでしょう。

なぜなら、遺伝子にとってはより強い遺伝子を後世に残すことだけに

関心があるのだから。

遺伝子にとっては争いは不可欠なのでしょう。

より強く進化するために。

 

コロナで生活が苦しくなった人、たくさんいたはずです。

挑戦したいことをあきらめてしまった人も、大勢いたはずです。

そういう人がいることは明らかなわけです。誰が見ても。

では、国はそうやって困っている人を本気で救済しようとしましたか?

今も救済しようとしているでしょうか?

 

私は国が、コロナで苦しんでいる人のことを本気で考えているようには

見えません。

なぜ補償もせずに営業活動の制限をするのか?

生活するのにお金が必要ないのならまだわかりますよ?

国民全員に衣食住がきちんと保障されて、

誰一人、凍えない・飢えない・雨風凌げない

といった状態ではないならまだしも、

実際生活にはお金がかかるわけですよね?

 

家賃だの、食費だの、医療費だの税金だの、

どんな清貧思想家、倹約家ですら一定の出費は

避けられないわけです。

だからそれが払えなくて苦しいという人がいるのなら、

手を差し伸べるのが普通だと思うのですが、

実際には補償なしで自粛を強要する。

わけがわかりません。

 

では、先ほどの、世界そのものに欠陥があるという話を

思い出しましょう。

資源には限りがあります。人間が増えていけば、

限りある資源を略奪しあうことになることは不可避です。

わかちあえばいい。誰も困らないようにみんなに配ろう。

それができないのがわれわれ人間なのです。

 

遺伝子は個人や個性を考慮してくれません。

あくまで、種として生存できるかどうかに関心を

払っているだけです。

そして、その遺伝子に操られているのが我々人間だったのだと

思い知らされましたね。

 

子どものころ、ひどいいじめに遭ったり、夢が挫折して

悲しかったのに何の救いもなかった。

そういう人がたくさんいると思います。

では、なぜそうなるのか?

なぜ世界の創造主はこの苦しみを癒してくれないのか?

私はこんなにも苦しいのに?

 

答えは簡単です。

遺伝子に「私」などないからです。

遺伝子は「個」の事情は一切考慮しないのです。

あくまで「種」が生き残るかどうかにのみ、

関心を払っている。

 

もちろん、他者を思いやることは大切です。

困っている人を助ける、募金する。

そういった奉仕活動は意義があります。

それ自体は全く否定いたしません。

 

ただ、ぼくが言っているのは、

遺伝子が「個」を考慮しない以上、

すべての「個」が尊重されることは

ありえない、ということ。

つまり、自由・平等・平和、

これらは理念として掲げることはできても

完全には実現しえないということです。

 

コロナ禍のニュースは腸煮えくり返るものばかりでしたが、

私が最も憤りを覚えたのは医療従事者・感染者に対する

差別・迫害でした。

 

言うまでもなく、医療従事者は病気という

「苦」を取り除くべく奮闘する者であり、

感染者は病気という「苦」に悩んでいて

助けが必要な存在です。

つまり、彼らに対する言葉は称賛・感謝・励ましに

なるはずです。

 

ところが、それと真逆のことを行った人たちがいた。

差別・迫害を行った人たちが。

なぜそんなことをしたのか?

これも簡単。

自分たちが感染するのが怖いから。

他の人は感染してもいいけど、自分だけは

感染したくない。

だからこんなことを言うのでしょう。

 

なるべく多くの人が感染症にかからないように

努めることの方が遥かに大事だと私は

思いますけどね。

 

というわけで、どんなに正しいことを実行しようとした

ところで、必ずそれを妨害しようとする輩が出現します。

繰り返しになりますが、これも遺伝子の思惑でしょう。

 

みんな同じ、みんな仲良くではきっと進化しないのでしょう。

争いを通じて生き残ることだけが目的なのでしょう。

この遺伝子、このエネルギーは。

 

だからこそ、ぼくらはこの苦しみの根本原因を

しっかり把握する必要があると思います。

 

まず、個人は自己の利益を追求しますが、

これは他者と追突して争いが起きます。

人間の場合、国家や自治体、会社がこの争いを

解決するわけですが、完全な解決はありえません。

なぜなら、国家や自治体もまた意志を持ち、

「個」を追求するから。

 

「個」の衝突と、「種」のための「個」の迫害。

これはもう誰が悪いとかいう話ではなく、

世界・生物にプログラムされたものなので

どうしようもありません。

そうでないなら戦争なんてとっくの昔に

終わってるはずでしょうからね。

 

というわけで、世界はこれからも

苦しみがたくさん出てきます。

ですが、ここまで読んでくださった皆さんに

誤解しないでほしいのは、私は何も

不平等や差別を肯定しているわけではないということです。

そんなものはない方がいいに決まってます。

減らすための努力もしたほうがいい。

ただ、悪い人はいなくならないよね、という

ごく当たり前のことを長々と書いているだけです。

よい世界をつくりましょう。

 

 

2.資本主義=消費社会への不信感

 

1.で必要な資源が全員に配給されないことや、動物界の悲惨な弱肉強食に

嘆いていましたが、2.でもその本質は同じです。

現状の社会に対する疑問が大きくなりました。

 

資本主義とは何か?

私の言葉で説明するならば、

「地球を食い物にした椅子取りゲーム」です。

資本とは工場・機械・人員など色々なものを含みますが、

要は地球上にある資源を消費して、商品を生産して、

それを売って、売れないものは廃棄して、

という風に地球そのものを食い物にする

大食い競争のようなものだと感じています。

 

コロナ禍で自粛を続けるうちに私はもう積極的に外出したいとは

あまり思わなくなりました。

だって、外出先でもあーしろこーしろと注文をつけられる

社会になってしまいましたからね。

そんな状態で外に出て心の底から楽しめるんでしょうか?

わたしはコロナを理由になんでもかんでも禁止するのが

好きではないんですがどうでしょうか。

トイレを使用禁止にしてどうするんでしょうか?

よくわかりません。

 

外出しなくなるとどうなるか?

物を買わなくなります。

消費活動をやめることになります。

こどもの頃って別にお金なんてなくても

自分で楽しもうとしてた気がするんですよね。

近所の公園で遊んだり、縄跳びやったりとか。

別にお金なんていらなかった。

 

ところが、お金を稼いでそれで生活するように

なるとどうなるか。

支払うことが当たり前になる。

給料も、毎月決まった日に振り込まれる。

そういう日常に流されるまま、いつしかぼくは

お金を使うことが自然になっていったのでしょうね。

 

まあ、ぼくもそんなに金遣いが荒いとは思いませんけども、

それでも週末にちょこちょこ出かけたり、ゲームを買って

おりました。

ぼくが買うゲームは殆どレトロゲームなので1つの額は

安いけどトータルで見ると結構使ったのだと思う。

 

生産、販売、消費、廃棄。

この円環運動にぼくも参加していたということ。

 

ただ、いまのぼくはこのスパイラルに積極的に

関与しようとは思わないんですよ。

消費することに空しさを感じてしまったから。

消費はあくまで消費でしかない。

なるべくお金を消費せずに、心を豊かにする

方法を見つけていくことになるでしょう。

 

長い目で見たときに最善の選択をすることができるか?

これがいまのぼくの課題なのかもしれません。

ぼくはとにかく衝動的で、思いつくままに行動

してしまう。思慮が浅い。本当に。

その瞬間を楽しむ、今の快楽を味わう。

それが今までのぼくの人生における、

ぼくの選択だった。

 

だが、それはもう通用しない。

いや、最初から通用していなかったと言うべきか。

楽しいことも、やがては空しいことへと変わっていく。

なぜなら時の流れはいつでも駆け抜けてゆくのだから。

楽しいことを追い求めるのではなく、

安らかなことを志向してみよう。